真剣勝負で伝統を創る 人間国宝 献上博多織職人 小川規三郎さん

777年という長い歴史を持つ我が国の伝統、博多織において、親子2代で人間国宝に選ばれた小川規三郎さんのお話を伺ってきました。

小川規三郎さんプロフィール

出身地:福岡県福岡市

活動地域:福岡県を中心に

経歴:1936年生まれ。15歳の頃より、父であり後の人間国宝・小川善三郎に師事し、自身も2003年重要無形文化財「献上博多織」技術保持者に認定される。博多織の機械化、分業化が進む中で、今なお製作過程の全てに関わり、手織りで仕上げるスタイルを貫く。日本伝統工芸展、日本工芸染色店などで受賞する一方、九州産業大学名誉教授や博多織ディベロップメントカレッジの学長を歴任するなど、後進の育成にも励んでいる。2006年福岡県文化賞受賞。

現在の職業および活動:献上博多織職人

「夢はない、現実を創る」

Q1.小川先生が思い描くこれからの夢を教えてください。

小川 規三郎(以下 小川 敬称略) 夢はありません。現実を創るだけです。夢を目に見える結果として現実化しなければ意味がありません。夢はなく、あるのは「現実」だけです。

 宇宙に人が飛び出すこの時代に、伝統工芸をやることは時代に逆行するようにも見えます。残っていく保証はどこにもありません。
歴史を振り返ってみても、江戸時代が終わり、廃藩置県をして文明開化が起きた時点で、イギリスから西洋の衣服の文化が入ってきて、着物の文化は断ち切られました。その後も、日本は戦争に入り、戦時は、着物は邪魔になり、女性は着物を袖を切ってモンペをはきました。戦後も、日本では皆、今日を生きるのが精いっぱい。まず食べること、住むことが最優先で、皆着る物を気にする余裕はありませんでした。ただ、衣食住が揃ってくると、人はオシャレを求めます。オシャレをしたいという心に合わせて、博多織も流行を取り入れ変化してきました。服の影響は大きいものです。戦闘服を着たら戦いの心になりますが、着物を着るだけで心が和やかになります。だから、博多織は平和産業なのです。
  
 「伝承」と「伝統」は違います。「伝承」は、お茶やしきたりなどの昔からある古いものを間違いなく受け継ぎ、伝えていくことです。「伝統」は新しいもの、生きているもの。流行の最先端を取り入れ続けるから、「現実」にし続けることができます。途絶えてしまったらそれは歴史になります。伝統を歴史にしてはならない。私の博多織は「伝統」なのです。

「自己研鑽してやり続けるだけ」

Q2.小川先生はどのような目標や計画を立てていますか?

小川 目標計画を立ててもその通りにはいきません。目標へ向かっていっても、途中で間違ってしまったらそれまでのことが断ち切れてしまいます。常に、障害、防波堤はたくさんあり、それらを全てクリアしていかなければなりません。針の穴のような小さな穴からでも堤防は崩れてしまいます。そのためには中途半端はせず、どんな小さいことも見落としては駄目です。常に自己研鑽をし続け、完全無欠にしておかないと。それがプロです。

「真剣勝負」

Q3.小川先生はの活動指針を教えてください。

小川 私もまだまだ修行中。常に自分の目を養い、自分を磨き続けています。外に飛び出しては、いろんな場所に出かけ、自分の目と耳で現地の人と交流し、多くの工芸品を見て、歴史を学び、感性を磨くようにしています。
 百聞は一見に如かずと言います。そして、百見は一行いに如かずです。さらに、百行いは一里塚に如かず。千里塚まではまだまだあります。今ここも、いつまでも真剣勝負で磨き続けることが大事ですね。

「知恵を絞れば突破できる」

Q4.小川先生が今の活動をされるようになったきっかけや気づきがあれば教えてください。

小川 限界が来ても、知恵を絞れば必ず突破できます。伝統文化といっても、世の中が認めるような結果を出さないと意味がありません。 
 例えば、山に行った時、鬱蒼とした竹林の間に、藤の花が一本スっとさがっていて、木漏れ日がさしていました。その景色を自分の脳裏に焼き付けます。スケッチする必要はありません。そして、その脳裏の景色を帯に反映します。何気ない自然の景色でも美しい帯に表すことができるのです。又、帯の中に帯を切って貼っているように見える帯を創りました。実際はそう見えるように織り込んでいるんです。こうした知恵は、見る目を養えば、いつでも絞り出すことができます。こうした私の作品は初めは、「これは博多織ではない」と酷評されましたが、私は意に介しませんでした。そして、数々の大賞を頂くことができました。できる、できないではなく、何事も知恵を絞りやってみることですね。

「この道しかない」

Q5. 知恵を絞りながら数々の壁を突破してきた小川先生。そういった気づきを得るようになった背景には、何があったのでしょうか?

小川 私の父も献上博多織の人間国宝でした。親子二代で人間国宝を頂くことはとても珍しいことです。その父は、とにかくとても厳しく無言の人で、私は教えてもらったことはなく、父の仕事を現場で見て、盗んで学ぶしかありませんでした。間違うと厳しく物差しで叩かれたものです。
 そんな父だったので、家はいつも緊張感が漂っていました。テレビで野球を見る時は、気楽に横になって見たいものですが、父は正座をして背筋をしっかり伸ばしているのです。野球も真剣勝負だからだというのです。そんな、日常全てが真剣勝負の人でした。

 実家は木造の家で、私は床の雑巾がけを何度もやらされました。それも湿度に合わせて、雑巾の温度や絞り具合を変えるのです。乾燥している日には、ゆるく絞った暖かい雑巾で拭くことで、水分が蒸発して湿度を調整します。それによって着物を着た時の肌のピッタリ具合が全然違ってきます。ある冬の寒い日、母が冷水が冷たいだろうと私を気にかけてお湯を足してくれたことがありましたが、「湿度の調整のために冷たい水でなければならない」と、父に水を替えられたものです。

 父が、他の兄弟と違って長男の私にだけあまりにも厳しかったので、「もう耐えられない、辞めたい」と思い、祖母に「なぜ父は私にだけこんなに厳しいのか!?」と聞いたことがありました。祖母が、「お父さんはお祖父ちゃんからもっと厳しくされていたよ」と言ったのを聞いて、私はモンモンとしながらも、「この道を行くしかない。いつか父を見返せる人間になろう」と、反骨精神を湧かせました。

 そんな父と40年間一緒に仕事をしましたが、その時はわからなくても、父が言っていたこと・やっていたことには全て意味があり、何度も後で「あぁ!だから父はこうしていたんだ!」と気づかされることが多くありました。そして父が亡くなってからも、本当の意味に気づくことがたくさんあります。厳しい父でしたが、そこから学ぶことも本当に多かったです。

 私も83歳になり、身体が動かなくなってきました。ただ、口は動きますので、今は若い人たちの育成に取り組んでいます。2006年に博多織ディベロップメントカレッジを設立しました。これは、伝統文化に先端教育を導入し、「創造と自立」を手に、世界に通用する博多織クリエイター、プロデューサーを育成する学校です。ここの生徒は三年で一人前になって即戦力になり、中には経営者になっている人もいます。
 彼らには、私が知っている知識を早く吸収して、その上で新しいことを考えていってほしい。そんな若い人たちが育つのを見るのが楽しいです。そして、社会の厳しい荒波にもまれ疲れた時には帰ってこれる居場所でありたいと思っています。

読者への一言メッセージ

小川 一人ひとり個性があって、自分の個性を大事にすれば良いと思います。無理に曲げなくていいんです。小さければ小さいなりに役に立ちます。恥をいっぱいかいて、個性を開かせていってください。

記者 お話を伺って、伝統工芸という残っていくのが難しい分野で人間国宝まで辿り着いた背景には、小川先生のひた向きに真剣勝負を続けてきた強く誇り高い精神があることをひしひしと感じました。
本日は貴重なお話をありがとうございました。

【編集後記】

インタビューの記者を担当した新原&小水です。
お話をしてくださる一言ひとことに非常に重みがあり、「ずっと自分自身に対して真剣勝負をし続けてきた人はこんなに人間としての在り方が違うんだ!」と心揺さぶられるような取材でした。小川先生から、私たち多くの日本人が失ってしまった、自分が決めた道を誇り高く死ぬ気でやり通す侍のような日本精神を感じ、多くの人に小川先生と触れ合う機会をもってもらいたいと思いました。
小川先生、本日は本当に貴重なお時間をありがとうございました!

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