東京日本橋で地域に愛される弁当屋 ジャマイカ 店主 那倉勉さん 幸子さん

東京都日本橋の人気の弁当屋ジャマイカ。約100種類以上のお弁当のレパートリーと味やボリュームは好評で、温かい接客に常連客も多くフランチャイズ店にはない魅力があります。そんなジャマイカの店主那倉ご夫妻にお話をお伺いしました。

 

那倉勉(なぐらつとむ)さんプロフィール
出身地:埼玉県
活動地域:中央区日本橋
経歴:高校卒業後、大手中華料理チェーン店に入社し、ホールスタッフとして勤務。都内はじめ関東近郊や北陸、東海の店舗へ移動しながら、店長・マネージャー職として勤務する。28歳で同じ会社の先輩の独立をきっかけに退社。その後10年間電気工事士として働いた後に、1999年弁当屋ジャマイカを開業する。
現在の職業および活動:弁当屋ジャマイカを経営。中華料理の経験も活かした弁当の調理や味付けは美味しいと好評。

 

那倉幸子(なぐらさちこ)さんプロフィール
出身地:埼玉県
活動地域:中央区日本橋
現在の職業および活動:弁当屋ジャマイカで接客。温かく元気な接客で「ジャマイカのおばさん」として地元で有名。

 

地域に密着して、愛される弁当屋としてこの先も続けていきたい

Q:どのような夢やビジョンをお持ちですか?

那倉勉さん(以下、那倉勉 敬称略)
那倉勉
:日本橋でお弁当屋を始めてから、20年以上経ちました。この先も地域に密着して、地域に愛される弁当屋として、この先も続けていきたいと思っています。弁当を売るだけじゃなく、日頃から挨拶するなど、住民や地域の方、働いている方々との交流を大切にしています。

記者:奥様がお店の接客をされていて“ジャマイカのおばさん”として地元のアイドルになっているそうですね。

那倉幸子さん(以下、那倉幸子 敬称略)
那倉幸子
「行ってらっしゃい!」という一言が励みになるという言葉をお客様からよくいただいています。先日も若い新入社員の方達が「この弁当屋のおばさんはとても元気で、こちらも元気をもらえる。」とお店に来られていました。
自分にできることは、お客様とのコミュニケーションで、金額には関係なく、お客様と温かい言葉をかわせることがとても嬉しく思っています。

Q:それを具現化するために、どんな目標や計画を立てていますか?

那倉勉:弁当屋をはじめた当初、20年前はこの地域にはコンビニも何もありませんでした。しかし、コンビニをはじめライバル店が増え、飲み屋などの飲食店がお弁当を出すようになりました。また、オフィス街でしたがマンションが建つようになり、オフィスのお客様も減っていく傾向があります。
私たちのライバルはコンビニで、コンビニではできないことをここではやっています。
コンビニに勝てるわけではないけど、お客様や地域の方々とのコミュニケーションや、一人一人のお客様に合わせてオーダーメイドで弁当をつくることを意識しています。
わざわざ貴重なお昼の時間を使って、ここに買いに来てくれるわけだから、それなりのことをしていかないとと思います。
お店に来てくれる回数が多いから常連ではなく、この辺に勤めている人は皆常連のお客様だと思っています。

 

「いらっしゃいませ」だけが接客ではなく、お鍋を振って調味料を入れるところから接客

Q:その目標や計画に対して、現在どのような活動指針を持って、どのような(基本)活動をしていますか?

那倉勉:決まった同じ種類のお弁当を出すことは簡単ですが、それでは通用しない時代になりました。「いらっしゃいませ」だけが接客ではなく、お鍋を降って調味料を一個入れるところから接客です。その気持ちが、弁当を食べるお客様に絶対伝わると思ってやっていますし、それをやらないとコンビニと同じになります。
味や商品はあくまでもお客様の主観でしかなく、一番肝心なのは、お客様が何度食べても飽きない弁当にすることです。
お店では、弁当だけじゃなく、サラダ、惣菜、サンドイッチ、おにぎり、スパゲティや調理パンまで、2人で100種類以上を作っています。
お店の営業は朝6時からで、毎日午前3時にはお店に入り、家に帰る時間は夜22時ぐらいになります。
2人で回すことは大変な時もありますが、お客様の方が気を使って、配慮してくれるのでとてもありがたく感じています。
また、どんなに美味しい料理を出しても、接客ができていないとその店は売れません。妻がとても人当たりが良く、非常に助かっています。

那倉幸子:お店は月曜日から金曜日までしかお店を開けていませんが、その中でも毎日いらっしゃる常連のお客様、いつも同じ時間に来るお客様とのコミュニケーションを大切にしています。常連のお客様が見えないときには具合が悪くなっちゃったのか心配になりますし、反対に私が調子悪いときにはお客様がわかってしまいます。
お店に来られる方やご近所の方、一人一人に声をかけると、「おばさんありがとう。」と言ってくれます。
月曜日から金曜日まで朝6時から立ってやっていますが、20年間のうちで休んだことはほんの数回です。

 

何をやりたいではなく、自分は商売をするものだと自然に思っていました

Q:そもそも、その夢やビジョンを持ったきっかけは何ですか?そこには、どのような発見や出会いがあったのですか?

那倉勉:親が新聞屋で商売をやっていたので、自然に自分も商売をやるんだろうなと思っていました。小さい時から、「八百屋がいいかな、花屋がいいかな。」と考えることも多く、何をやりたいではなく、自分は商売をするものだと自然に思っていました。
飲食の業界には、高校を卒業して予備校に通っていた頃に、最初は勤めで入りました。洗い物からはじめ、洗い物一つで、その仕事ぶりが上司に認められて、上司が私をすぐにホールに出したがり、ホールに出るようになりました。
その上司は同じ高校の先輩で、一緒に働いたことがきっかけで親しくなり、私はとても慕うようになりました。
そのお店は当時、全国に広がっていたとても伸び盛りの中華料理チェーン店で、その先輩は支店長でしたが、栄転で金沢に行き、自分も一緒についていきました。先輩と一緒に働くことが目的だったため、最初はお金をもらわずに向かいの喫茶店でアルバイトした時もありました。そのうち、本社と話し合い会社に入れという話になり社員で入りました。
その後も、先輩にくっついていき、都内のお店、関東近郊から金沢から、浜松までいきました。
そのうち、先輩が神奈川の相模原で独立したので、自分も会社を辞めてそのお店で一緒にやるようになりました。
けれど、当初先輩についていった時と同じ気持ちで仕事することができなくなりました。
自分の気持ちを裏切れなくなり、今までと同じように先輩についていくのではなく、自分で1からやっていくことをその時に決断しました。
ちょうど28歳ぐらいの時で、奥さんとの縁も大切にしていきたいと思いました。
自分一人でやっていくしかないと思い、飲食の道は辞めて電気工事士になり、その頃から奥さんも本格的に働き出しました。
資格も取って、必死に働き、3年目で暮らしていけるような給料になりましたが、建設業界では決して楽ではない仕事で、現場は命がけのこともあり本当に大変でした。
10年ほど経って、弟から日本橋でお弁当屋をやらないかという話がありました。ちょうど電気工事士で働いていたことに疑問を感じ、くすぶっていた時期で、幼い頃から商売をやることを考えていたのもあり、お弁当屋を始めることを決めました。
立ち上げる時に、資金を自分の母親から借りてはじめました。弁当屋を始めてから10年ほど経って、リーマンショックが起こりました。ちょうどその時期に母が亡くなって、その1週間後に父が入院して、その時は弁当屋がどん底で、一度お店を辞めることを考えました。
しかし、母親が命を削ってくれたからこそできた弁当屋でもあり、お客様や地域の方とのつながりを大切にしてきて今に至ります。

 

繋がりを大切にして、人に与えていきたい

Q:先輩とのご縁や奥さんとのご縁を大切にされていて、人への愛が一貫されているように感じます。その背景には、何があったのですか?

那倉勉:自分の中の証として、人とのご縁や愛しかないなと思っています。妻との出会いは幼稚園でした。
自分の生い立ちを振り返ったときに、当時どの家庭でもそうだと思いますが、両親にこうして欲しかった、ああして欲しかったということがありました。特に、親父に笑って欲しかったという気持ちが自分にはありました。
それが自分の根源にあって、自分が欲しかったことを人に与えていきたいという気持ちがあります。
そこから何かをやる時には、繋がりを大切にして、人に与えていきたいと思うようになりました。
気持ちを込めて作ったお弁当を、奥さんが接客を通して、その気持ちを外に出してくれるからこそ、私が思っている弁当屋のイメージが維持できています。

記者:お忙しい中、貴重なお話をありがとうございました。

 

ジャマイカの情報はこちら↓↓↓
https://tabelog.com/tokyo/A1302/A130204/13128246/

 

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編集後記
インタビュー記者を担当した岩永、川口です。
今回、取材させていただく中で、昭和から平成の厳しい時代を生き抜いた那倉ご夫妻の生き方と、常に人を大切にし、人に喜んでもらえるようにしている姿勢が、お弁当の味や接客ににじみ出ていることを感じました。
今後のご活躍を応援しています!

 

 

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