伝えたいのは「奇跡の『命(愛の結晶)』の大切さ」ハート♡の着付師☆こも☆こと“菰田(こもだ)里子”さん

太陽のような大きくて暖かなオーラを放つ菰田さん。着付師としてご活躍ですが、その背景には深い涙とメッセージがありました。そんな菰田さんの世界観をたっぷりお楽しみください。

●プロフィール●
<出身地>福岡県北九州市
<活動地域>福岡近郊
<経歴>戸畑高校卒業後、西日本鉄道株式会社に入社。1年間勤務後福岡教育大学へ進学し、九州高等学校教員として生物学を中心に理科を担当
<現在の職業および活動>着付師として、着付、ヘアメイク、同行ショッピング、和箪笥整理、着付レッスン(プライベート・グループ)を行う。また、一閑張り作家としても活躍中
<座右の銘>「心技体」、「やらないで後悔するより、やって後悔する」

『こうなりたい・こういう人生を歩みたいという拘りが、人生のすべてのアイテムを生み出した』 


記者 一般事務、教師、着付師と一風変わった経歴をお持ちですが、夢やビジョン、成し遂げたいことは何でしょうか?

菰田里子さん(以下、菰田)
人生の過程ひとつひとつは、私の拘りを叶えるアイテム。こうなりたい・こういう人生を歩みたいという拘りが、これらのアイテムを生み出しました。

拘りは大きくは3つあって、

・生物の教師になること
・母として子どもを「行ってらっしゃい」と送り出し「おかえり」と迎えること
・奇跡の命の大切さを伝え続けること


3つを集約すれば「奇跡の『命(愛の結晶)』の大切さ」であり、これが私の人生の根底に流れているもの。その貴重さが分からずに自ら命を落とす人も多い時代、そこの気付のメッセンジャーになりたいと思っています。

回り回っても生物教師の道を選んだのもそのため、教壇では生物というアイテムを通して「奇跡の『命(愛の結晶)』」について説き続けました。生命の誕生がいかに奇跡なのか。精子と卵の出逢いにどれだけのドラマがあり、どれほどの確率でひとつの命が生まれるのか。その命の結晶はどれほど愛されているのか。

自分の幼少期に「行ってらっしゃい」「おかえり」と言ってもらった記憶のなかった私は、「自分の子どもには直接伝えたい!」と自己満足だと解っていて、どうしてもなりたかった教師を7年で辞めました。

記者 命の大切さを伝えるために、何か計画していることはありますか?

菰田 ハートの着付師の「ハート」に深い意味を込めています。凄く着物が好きで選んだ着付師の道ですが、なぜ着付師なのかは、恐らく跡(あと)になって判るでしょう。何故、生物教師なったかが跡になって判ったように!何をするにもハート(命)がないと成り立たない「ハート=愛=命」だと捉えています。

出逢いなのか、出来事なのかはわかりませんが、「着付師をしているからこその命に通じる何か」が待っているはず。そこで出逢った出来事や人に、最終目標である「“ハート=愛=命”のメッセンジャー」としての何かのきっかけが起きると信じて着付師をやっています。

着付に関して言えば、自分自身が「こんな先生がいてくれたらな!」という先生像を体現しようとしています。伝統文化は敷居が高くて保守的なところもあり、日本の民族衣装である着物が着たいというニーズはあれど、「こうあらねば」に縛られ、着る人がなかなか増えないのが現実。そのハードルを下げたいなと。

モットーは「美しく・楽で・着崩れない」着付け、そして「高価・難しい・ケアが大変」という3大ハードルを下げること。お陰様で若かりし頃自分自身が多くの学びや経験をさせてもらえたので、それぞれの良さを自分なりにピックアップしたり、独自の手法を開発しながら、個々のニーズに合ったオリジナルの提案をさせてもらってます。

記者 これまでのしきたりや慣例に妥協して合わせる人が多い中、伝統文化の突破口を開くとは!今までにないものを創りだすパイオニアですね!そんな中、最終目標に向かって日々心がけていること、実践していることはありますか?

菰田 話すこと、伝えることですね。でも話すに至る幾多の背景は、その当時は話したくないことだらけで。でも「何をしたい?」と自問したときに使命が明らかになり、そこからは「話そう!伝えよう!」と決めました。だからこそ、こういったご縁があったと思うのです。

記者 なるほど。では、その夢や拘りを持つに至った背景にどんな気づきがあったのでしょうか?

菰田 諸事情があり、ストレートに教職には就かずに就職しました。ですが生物教師の夢を諦めきれず、周囲の反対を押し切って西鉄を辞職。その後、猛勉強して大学へ進学、念願の教職に就きました。ですが7年後、結婚を機に再び周囲の反対を押し切って生物教師を辞めます。それは「行ってらっしゃい」「お帰り」という二語だけの拘り(自己満足だということは百も承知)、ただひとつの理由からでした。

結婚後すぐに子どもを二人授かって家庭に入り三年「ママデビュー」という試練が待っていました。母親になると「〇〇さんの奥さん」「△△ちゃんのお母さん」と自分の名前で呼ばれなくなります。それまでは、自分の意志で生きるのが普通だと思っていましたた。それは違ったのか?自分が変なのか?と自らを疑い、苦しみました。さらに私自身がママグループに馴染めなかったことで、息子が虐めのターゲットにされて気が狂いそうに。私のせいで息子にこんな想いさせるなんて。でも長い物に巻かれるのことはできない…と葛藤の日々。

そんなある日、赤信号の中、交通量の激しい大通りをフラッと横断してしまって。半分渡ったところでハッと我に返ったから事なきを得ましたが、もしかしたら死んでいたかもしれない。あのような瞬間は、自分の意思とは別に「人間はおかしくなっている」と悟りました。意識では死にたいとも赤信号を渡りたいとも思っていない。けれど覚醒剤の何十倍もの濃度の麻薬物質が脳内に分泌され、幻覚や幻聴を起こす。もしかしたら死にたくないのに逝く人も多いかもと考えました。

有り難いことに、そのときの私には考える余地がまだあった。それから三日三晩自問自答しました。「どうしてこうなった?」「今の私に何ができる?」「私は今、どうするべき?」三日間ずっと考えました。「このままこの世界だけにいたらどうなるのか?」「どうすればこんな事態が起こらないようにできるのか?」

そして気づきました。「この社会だけでうまくやっていこうとするからいけないんだ!」と。「それならば、私がいることで喜んでくれる貢献できる社会を自分で見つければいい。そうすれば、ここでのストレスは緩和され、費やす時間やエネルギーも分散できる」と。

「何ができるの?」と自問して閃いたのが「着物」でした。理由は不明ですが、小学校の時からウェディングドレスより打掛に美しさを感じる子どもでした(笑)。縁も環境もないのに不思議です。着物を着たい!着せてあげたい! もし着付が仕事になるなら、「行ってらっしゃい」「お帰り」という拘りも通せるかもしれない。そこで「着付師になろう!」と決断し、翌日にはお免状を取得する為とある着物学院に入門していました。

記者 一貫して拘りを通し続けていますね。その拘りにはどんな背景があるのでしょうか?

菰田 課せられた使命を考えるときに、祖母の人生を考えます。私は生後すぐに祖母に預けられました。そして、小学校に上がるときに親元に戻され、その頃に弟が生まれました。祖父(夫)を戦争で亡くし、子ども5人を1人で育てた祖母ですが、やっと平穏な平成になって孫(弟)子ども2人(母と伯父)と変死。孫、子ども2人と先立たれ、自分(祖母)が逝く順序はまるで逆でした。

私が親代わりに育てた弟は転落死でした。彼が高3のとき、校舎の4階の渡り廊下から落ちたのです。未だに真相はわかりませんが、身柄を引き取りに行ったときに警察官から開口一番に言われた言葉は「言っておきますが虐めではありませんから!」でした。ショックで何が何だかその時の事はほぼ記憶にありません。

母も必死で生きた人でした。一般的に専業主婦が多かった時代ですが、父が稼がず、遊び・お酒・暴力に明け暮れるので、母は男尊女卑の海で悔しい思いをしながら私達子ども二人を育てる為に働き尽くしました。当然、私は鍵っ子。母に厳しく育てられ、家庭の暖かい雰囲気も、優しく誉めて抱きしめられたことも一切記憶にありません。そんな母の背中を見て育った私は大した反抗もする暇がなかった。私も生きることに必死でした。そんな母も癌を患い、もう大丈夫かと安堵した矢先に55歳で変死。それから伯父が変死した後祖母が逝きました。これらの間に父方の祖母も亡くなりました。

記者 幼いころから生きることに向き合わざるを得なかったり、身近な人達の死を多く経験しているのですね。

菰田 だからこそ、弟・母・伯父・祖母のメッセージを受け止めて生きていかなければ、生きていきたいと思います。そして、祖母や母や弟が喜ぶ人生を生きている私が歩まなければならない、悲しむ生き方をしてはいけないと思っています。

奇跡の命(愛の結晶)の大切さ貴重さを1人でも多くの人に気づいてもらえたら、先に逝った家族も喜んでくれる。そして辛い想いをしながらも救われた命がさらなる命を救えるような素敵な輝きを放ったら、どれだけの人が救われるか。命を落とすかどうかの瞬間は、まさに紙一重。そこをひっくり返すのが私の使命だと。

そんな私は優しい母として我が子を包み込んであげたかったけれど、人間は自分が歩んできた道しか知らない。経験してきたことしか人生の基準にはならない。我が子を育てるって感情移入や責任が付いて回り難しいですね。結局、平成でありながら昭和のようなスパルタでしか育てれない。でも、今、家庭が崩壊していないのは、きっと愛だけは子ども達に通じたのかな、と。

何より人をダメにするのは無視すること。私が教師に成りたかった理由の1つが、礎になってくれた先生の存在です。部落差別による虐めが小学校で蔓延。それが許せず担任に掛け合いましたが無視されました。そこで私は放送室をジャックし「おかしなことが起こっている!」と全校放送したんです。それをしっかり受け止めてくれたのは隣のクラスの先生で。こんな先生になりたい!と強く思ったのです。

記者 最後にメッセージをお願いします。

菰田 いろんなことがあればあるだけ人間は強くも、優しくも、美しくもなれると信じています。嫌なことや苦しかったこともすべてが感謝に変わります。
とにかく諦めない、終わらせないでほしい。生きていれば何かが起きる。引きこもっていても何かが起きる。命がすべて。絶ってしまったらそこで終わり。何年引きこもってもいい。奇跡と奇跡の連続でこの世に生を受けた。生きていることがどれほど素晴らしいのか。どれだけ愛が命を支えているのか、間接的でも直接的でも、その気付きの引き金に繋がれる人になりたいのです。

記者 なにがあっても命を終えないで!何事も諦めないで!というメッセージ。自分の限界を自分でつくらず、どこまでも可能性でみている菰田さんだからこそのメッセージですね。本日は貴重なお話をありがとうございました!

・菰田さんの情報

Facebook : https://www.facebook.com/satoko.komoda.9]

編集後記

インタビューを担当した古川、岡山です。1つも無駄にせずバトンをつなぐ貴い想い。すべての命が菰田さんを通していかされているようで愛と強さを感じました。ここでは書ききれないほどの秘話がありますので、ぜひ直接、菰田さんにお話を伺ってみてください。

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