皆と共にワクワクを続けること ブラジル番長 吉永拓哉さん

元暴走族。少年院に入り出院後、父の勧めで単身南米へ渡る。日本とは全く文化も生活習慣も違う南米で、日本人移民の方々が力強く生き抜く姿を見て、価値観が変わった吉永拓哉さん。今は福岡市天神の親不孝通りエリアを中心に、少年院出院者の自助グループや地域活性の活動をしています。波乱万丈とも言える人生の中で、どんな心の変化があったのか、お話を伺ってきました!

吉永さんプロフィール
出身地:
福岡市
活動地域:親不孝通りとブラジル
経歴:中学卒業後、1年遅れで定時制高校へ行くも退学、少年院へ送られる。退院後、新天地を求めて南米放浪し、ブラジルの日刊邦字紙「サンパウロ新聞」の社会部記者となる。帰国後は、福岡市の若者繁華街・親不孝通りの町内会長に抜擢され社会活動にも力を入れる。著書・ヤンキー記者、南米を行く(扶桑社)、少年院で、大志を抱け(幻冬舎アウトロー出版)など。第79代 激レアさん(テレビ朝日・激レアさんを連れてきた。)
現在の職業および活動:ジャーナリスト、作家、会社経営者、町内会長

「自分が楽しいと思うことを続けると『支援』という感覚が消える」

Q.どのような夢やビジョンをお持ちですか?

吉永拓哉さん(以下、吉永) 今、私がやっていることは親不孝通りエリアの地域活性化とNPO法人セカンドチャンス!(少年院出院者の全国サポートネットワーク)の活動です。仕事のほうは新聞記者と海外送金事業をしています。
私自身、少年院を出院してすぐに南米に行ったことで、外国でしか味わえない多くの経験をさせて頂きました。その経験を生かして、少年院出院者たちが社会で頑張れるように活動したり、街づくりをしたり、在日外国人の方々が、日本で生活しやすい環境づくりをしています。

Q.それを具現化するために、どんな目標や計画を立てていますか?

吉永 私が天神3丁目町内会長になったのが5年前です。当時、街は落書きだらけ、ゴミだらけでしたが、クラブ経営者たちや警察官など、街の有志たちと定期的にゴミ拾いを始めたことがきっかけで、本格的な親不孝通りの街づくりをはじめました。今年3月にはバリアフリー化が完成しますので、新生・親不孝通りとしてパレードも企画しています。住人も昔に比べたら増えましたので、住民と商店の方々の調和を図りながら、親不孝通りを健全な方向で魅力No. 1の街にしていきたいです。
セカンドチャンス!は、東京、大阪、札幌など日本各地に拠点があります。福岡メンバーは活発に活動していますので、これから九州の他地域にも、まっとうな道で頑張る少年院当事者の輪を広げたいと考えています。

Q.その目標や計画に対して、現在どのような活動指針を持って、どのような活動をしていますか?

吉永 私の場合は義務感を抱いたり、社会にとって良いことだからと意識してやっていると、だんだん楽しくなくなってくるんですよ。最初の頃は「良いことだ」と思ってやっていましたが、徐々に支援という意識が薄れ「楽しくてやっている」という感じに変わり、今ではライフワークになりました。ゴミ拾いをやってもお金は入ってきません。なので「お金も入ってこないのに、なんでやっているんだろう?」とか「良いことやらなきゃ」と考えると、だんだんと不満が出てきます。ところが、楽しみながらやっていると、「良いこと」とか「支援している」という感覚が自然と消えます。「社会活動は自分の楽しみ」それ以外のなんでもないです。逆に言うと、これが義務だと感じだしたら、あっさりと辞めるかもしれませんね(笑)

記者 楽しみながらやるのは、すごく大事ですね。吉永さんはどんな時に楽しいと感じますか?

吉永 皆で何かを一緒にしながらワイワイしている時です。親不孝通りのゴミ拾いは、皆と世間話をしながら作業をやるのが楽しいわけですし、セカンドチャンス!のほうも、少年院出院者たちとガタリンピック(佐賀県鹿島市で開催される干潟で様々な競技を行うイベント)に出場したり、バーベキューをしながら、楽しい居場所づくりをしています。

Q.そもそも、その夢やビジョンを持ったきっかけは何ですか?そこには、どのような発見や出会いがあったのですか?

吉永 大きなキッカケはありませんが、「常に流れに身を任せている」と言ったほうが、1番しっくりきます。私の中で、過去の出来事が何か1つでも欠けていたら、今に至っていません。19歳のころ、少年院に面会に来た父親から「おまえは南米へ行け!南米では、日本の学歴なんて一切関係がなく、一人の日本人としか見られない。頑張った者だけが認められる社会だ。そこへ行ってゼロから人生勉強をして来い。」とアドバイスされ、思い切って単身南米に渡りました。最初にエクアドルに向かい、日本人移民が経営するバナナ園で働きましたが、そこで異国の地でたくましく生き抜く農園主の半沢 勝さんに出会い衝撃を受けました。半沢さんは20歳の時、エクアドルのジャングルを開拓していた父親を交通事故で亡くしました。それからは半沢さんが父親の代わりとなり、一家を支え、日本の社会保障制度など何もない異国の原始林の中を過酷な開拓に日々勤しみました。そして、再び日本の地を踏むことがないまま、人生をかけてバナナ農園を築いてこられた苦労人です。私はその当時20歳でした。半沢さんの姿を見て、自分が日本でしてきたことの小ささを感じ、それまでの価値観が大きく変わりました。その後の南米放浪では、たくさんの日本人移民からお世話になり、行く先々で彼らの生きざまを目の当たりにしてきました。
そういう経験があるため、2004年にブラジルの日刊邦字紙『サンパウロ新聞』の社会部記者となり、06年からは福岡支局長として、日本人移民をテーマとした取材活動を行っています。また、現在は、日本で暮らす外国人の方々の母国送金を目的とした海外送金事業所を運営しています。この仕事をはじめたきっかけも、親会社の社長から、「外国人の気持ちを理解できる日本人が運営しないと、うまくいかないんだ」と言われたことでした。そして、町内会長となった経緯も、私の前の町内会長から「親不孝通りは古くからヤンチャな若者たちが築いてきた街だ。だから、元ヤンチャだった若者が会長になると、街がうまくまとまるだろう」とバトンを託されたものです。このように、運良くも自分の人生経験が生かせる仕事や社会活動ができているので、毎日が充実しています。

Q.移民の方々との出会いに衝撃を受けたようですが、衝撃を受ける背景には、何があったのですか?

吉永 小さい頃から腕白で、当時はツッパリが流行っていましたので、カッコいいなと思っていました。10代の頃、最初に暴走族の集会に参加したとき、子供心にすごくワクワクしたことを覚えています。時が経って南米を放浪した時も、未開のジャングルや雄大なアンデス山脈をワクワクしながら探検しました。暴走族のように、悪いことにワクワクすることはダメですが(笑)、自分の想像を超えた何かを目の当たりにしたり、体験するとワクワクしますし、その衝撃が自分に多くの気づきや経験を与えてくれます。日本人移民の生き方も、私の想像を超えた生活をしていたので衝撃を受けたんだと思います。

記者 ワクワクすることって、普段とは違うところに目を向けているんでしょうね。だから相手の違いも認められるし、理解できる吉永さんなんだと感じました。吉永さんの動きによって、親不孝通りエリアも元気になっていきそうです。本日は貴重なお話、ありがとうございます!

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吉永さんの活動、連絡については、こちらから↓↓

●Facebook
https://www.facebook.com/takuya.yoshinaga.9

【編集後記】
今回、インタビューを担当した清水と三浦です。
ここでは書ききれない程の、日本人移民や南米現地で生きる人達の涙を感じるエピソードがたくさんありました。
今、日本で生きている事が素晴らしいと感じ、まだまだ聞いてみたいお話もたくさんありますが、次回にぜひ伺いたいと感じました。
貴重なお話、ありがとうございます!今後もご活躍を応援しています。

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