レンズ越しにみた日韓の出会いと交流 写真家 藤本巧さん

韓国各地を巡りながら、地方の農村や漁港、都市の風景など、そこに暮らす人びとの生き生きとした表情を撮り続けてきた写真家・藤本巧さん。1970年から現在まで50年に渡るこれまでの活動についてお伺いしました。

 

藤本巧(ふじもとたくみ)さんプロフィール
出身地:島根県
活動地域:日本、韓国
経歴:1949年、島根県に生まれる。
1970年から韓国の風土と人々を撮り続ける。
著書『韓くにの風と人』(2006年、フィルムアート社)ほか三部作、『韓くに風の旅』(1987年、筑摩書房)、鶴見俊輔共著『風韻 日本人として』(2005年、フィルムアート社)をはじめ、雑誌・新聞連載にNHK『アンニョンハシムニカ ハングル講座』表紙およびフォトエッセイ、『季刊 三千里』写真連載など。
1978・79年銀座ニコンサロン、1997年イタリアでの招待展覧会、2012年韓国国立民俗博物館「韓国を愛する巧 7080 過ぎ去った私たちの日常」等の展覧会開催。1987年度咲くやこの花賞受賞。2011年度(韓国)文化体育観光部長官賞受賞。

 

日本と韓国の関係や交流について、良い時代も悪い時代もありのままを作品として発表していきたい


Q:どのような夢やビジョンをお持ちですか?

藤本巧(以下 藤本 敬称略)
日本と韓国の関係や交流において、古代から現代までの間に、良い時もあり、悪い時もありましたが、そのような時代の流れの中で、日韓の関係や交流を作品として発表していきたいと思っています。

Q:それを具現化するために、どのような目標や計画を立てていますか?

藤本:これまで、時代の移り変わりと共にテーマを持って作品を発表してきており、今後もそのようなテーマで作品を発表していく予定です。
最初に、古代・百済の時代において、日本と朝鮮の国家関係の始まりで交流が沢山あった時代を写真として表現しています。
次に、秀吉が朝鮮征伐をやって、日本と朝鮮は仲が悪くなります。その後徳川家康の時代にその関係を修復するために朝鮮通信使が活性化し、江戸時代200年余年かけて関係を取り戻しました。朝鮮通信使については、昨年の春に大阪韓国文化院で展覧会をしました。

朝鮮半島が日本の植民地になる前ですが、魚をとりすぎて漁村が貧しかった時代ですね。瀬戸内などの漁民たちが韓国に移住して、彼らの助けをうけて漁業を行なっていたころがあります。その時代から朝鮮半島を統治していたころの風景を、約10年ほどかけて現地取材をしてきました。今でも、『岡山村』、『広島村』、『千葉村』といって、日本の名前だけが残っているところがあります。
それから、植民地時代に穀物を運ぶために、朝鮮に鉄道を引きました。当時その作業にあたった日本人の官舎や建物が今でも残っています。
その時代の象徴的なものが韓国にある日式住宅なのですが、戦争が終わった後も現代でも残っています。
今年の秋ぐらいになると思いますが、『寡黙な空間』というタイトルで写真集を出す予定です。

昨年の秋、大阪・生野に住む韓国・朝鮮人たちの生活を撮った『民族の風』という作品集を出しました。広島に職を求め、徴用工として労働していた人々が原爆にあいました。その人たちをテーマにした写真集も計画中です。
現在、年に2回テーマがあって、前半は日韓関係が良い時のこと、後半は不仲になった時、それを記録として残そうとしています。
今は年に3回ぐらい韓国にいっています。滞在日数は2週間ぐらいで、現地での移動手段はほとんど市外バスで回っています。
テーマが出ないときは全然出ませんし、出ないときは何をしたら良いかわからない時があります。それは私だけでなく活躍している作家が誰でもそうなりますし、そのスランプを乗り越えた時に、さらにエネルギーが出てきます。

願いが実現した、韓国国立民俗博物館での展覧会

Q:仕事をしていて一番印象に残っていることは、どのようなことですか?

藤本:2012年国立民俗博物館で展覧会を実施したことが印象に残っています。
当時韓国で日本人作家が活動しづらかった事情もあり、活動の中心は日本でした。韓国で展覧会を開きたいと思いはじめましたが、その時の希望は「規模は小さくても必ず韓国の招待で行う。」というものでした。
しかしながら、国立の展覧会はすぐにできるものではありません。
しかし当時の私はどんな小さい仕事も断らずに、目の前のことに集中しており、嫌な仕事も関係なく引き受けていました。
その結果、様々な出会いに恵まれ、2010年春にソウル、釜山そして金海で巡回展「藤本巧写真展-KARABITO」を初めて開催しました。
そして、2011年に政府関係の人から写真を韓国に寄贈しないかと言われたのをきっかけに、国立民俗博物館に4万7千点あまりの写真を寄付し、その関連展示として、2012年に展覧会「韓国を愛する巧 7080 過ぎ去った私たちの日常」が開かれました。
その展示会はニュースで放映され、韓国の人から「我が民族のために寄贈してくださってありがとうございます。」と頭を下げられたことは嬉しかったです。
その時の経験が今の私にとっての教訓となっています。
山の雨水が流れてきて、川になって大陸へ流れて行くように、何事も小さいことをおろそかにすると道は拓けてこないということ。
小さいことでも引き受けていくことが、今でも私にとって大切な指針になっています。

韓国から日本を観るように〜片野元彦との出会い〜


記者
:つい先日は、絞り染の第一人者として知られる「片野元彦」のテーマで、日本民藝館で講演会をされていましたね。

藤本:片野元彦(※1)先生との関係は、父が片野先生と縁があり、当時父が大阪で開いていた民芸店の主催で片野元彦の展覧会を実施しました。
私自身、片野先生から受けた影響は大きく、写真をはじめたばかりの頃、片野先生に「韓国に撮影に行きます。」といったら、片野先生は私に「韓国から日本を観るように」と言われました。
古代から、韓国から日本に文化が流れてきており、日本の文化の原点は大陸にあります。日本の文化芸術は朝鮮半島を抜きにして考えられないし、当時そのように言う作家は少なくありませんでした。

※ 1片野元彦(1899-1975):絞染職人。柳宗悦に地元「有松・鳴海絞り」の再興を託され、57歳のころから絞染に専念。天然藍による絞り染の第一人者として知られ、「片野絞」と呼ばれる独自の技法を確立した。

浅川巧より命名〜韓国との縁〜

Q:そもそも、その夢やビジョンをもったきっかけは何ですか?

藤本:私が韓国と関わりをもつようになった背景を辿ると、日本の植民地時代に朝鮮半島の文化と自然に惹かれた日本人、浅川巧(※2)と柳宗悦(※3)の存在を外すことができません。
父親が柳宗悦を尊敬しており、柳宗悦の著書 『私の念願』の中に浅川巧の追悼文が紹介されていて、それを読んで父が浅川巧を知りました。
浅川巧の生き方に父が感銘を受けたことが、私の名前『巧』の由来になったきっかけです。
そもそも、浅川巧は、高橋宗司さんの本『朝鮮の土になった日本人』がきっかけで、日本人に認知されるようになりました。浅川巧の半生を描いた映画『白磁の人』の原本は、江宮隆之の小説『白磁の人』です。
それも最近の話で、私が子供の頃は浅川巧は知られておらず、私自身も意識していませんでした。現在、名前については「ペンネームですか?」と聞かれることもあります。
私は10代の時に独学で写真をはじめ、1970年に初めて韓国を訪れました。
目的は、柳宗悦が1930年代に朝鮮半島を旅した道を辿り、現地の職人の暮らしにふれることでした。
当時、日本で作品を撮っていたのですが、自分の作品としてはしっくりいきませんでした。
しかし韓国で出会った風景については「理屈抜きの本当に美しい風景を発見した」と感じ、それまでの日本での撮影とは全く感触が異なり、夢中でシャッターを切ったことを今でも覚えています。
そのときの写真を、尊敬する染色工芸家・芹沢銈介 (※4)先生が気に入ってくれ、作品に自信が持てました。それ以来私は韓国での撮影にのめり込んでいきました。

※ 2柳宗悦(1889-1961):民芸研究家・宗教哲学者。雑誌『白樺』創刊に関わり、のち民芸運動を提唱。浅川巧・伯教兄弟らとともに朝鮮工芸に親しみ、その収集と保護に尽力。

※ 3浅川巧(1891-1931):日本支配下にあった朝鮮半島で技師として林業に従事。緑を戻そうと山々を歩くと同時に、白磁や膳をはじめとする民衆の暮らしに根づいた工芸品の魅力に惹かれ、柳宗悦らに紹介する。

※ 4芹沢銈介(1895-1984):染色工芸家。柳宗悦と親交を重ね、民芸雑誌「工芸」の表紙の装丁を受け持つ。「工芸」で型絵染が紹介され、民芸運動の人々との交流を深めた。日本民芸館・倉敷大原美術館工芸館の内外装や家具の設計等も手がける。国画会会員。文化功労者。人間国宝。

”ありのまま”に民族の本質的なものが存在している〜恩師との出会い〜


藤本
:そして、初めて韓国に行った際、美術評論家のソク・ドリュン(昔度輪)との出会いがあり、それがきっかけで、今の私があると言っても過言ではありません。
ソク先生は韓国人でしたが、植民地時代の日本の教育を受けており、言葉においては日本人よりも日本語を知っていました。
とても綺麗な日本語で、私も先生の教えに刺激を受けて、先生と共に韓国を巡る旅を何度か続けました。
ソク先生は、私の固定観念を変えてくれました。
当時私の中にはずっと柳宗悦の存在があって、哲学的な柳宗悦の美があり、柳宗悦を通して韓国を見ていました。
ソク先生はそんな私に「それをぶち破らないと本当のものは見れない。」と言いました。
つまり文化とは、単なる美醜や真偽ではなく、その時見えるありのままに、民族の本質的なものが存在しているというのです。
そこに気づかせてもらってから、私の作品が変わりました。
ちょうど1970年、農村の近代化であるセマウル運動が始まり、私が理想としていた韓国の風景が次々と壊されていきました。本来だったら、私はそのうちに韓国へ行くことをやめていたかもしれません。
けれど、ソク先生の影響によって、様々な対象に目が向くようになりました。
1970年代の後半以降もそこに暮らす人々を撮り続け、今に至ります。

韓国の風土や人々を取り始めて、来年で50年目になりました。
これからもテーマ性を持って写真を撮っていきたいと思っており、私の写真が少しでも日韓の交流のきっかけになれたらと思います。

記者:本日は大変貴重なお話ありがとうございました。

藤本巧さんの情報はこちらです。

http://artbook72.sakura.ne.jp/a/index.html

 

編集後記
インタビュー記者を担当した岩永と坂村です。
日韓の歴史や日本での民芸運動のお話、また韓国現地での貴重な体験談を沢山聞かせていただきました。特別なことがアートなのではなく、今この瞬間のありのままの姿がアートであり、それが民族の魅力として表現されているのだと感じました。韓国での活動は決して楽なものではなかったと思いますが、それを見せない藤本さんから滲み出るあたたかい人柄に、感動しました。これからのご活躍を応援しています。

 

 

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