「誰も一人にしない社会を」 株式会社樹希社 代表取締役 神田 樹希さん

デザインや出版、セミナー、美しいノートlleno(リエノ)など魂が震える仕事をテーマに様々な活動をされている神田樹希さんにお話しを伺いました

プロフェール
出身地:奈良県奈良市
活動地域:京都、大阪、東京
経歴:1965年生 
立命館大学経営学部卒業 学生時代にイベント企画&プログラミング集団  メディアループを設立、25歳で前身の印刷デザイン会社を設立、27歳で現在の会社を創業、Bar & designの店舗を構える、2007年銀河出版舎設立、2008年美しいノートlleno OPEN
32歳で悪性リンパ腫を発症、その後、他の病気を併発し13年間の闘病と7回の手術を経験
現在の職業および活動:株式会社樹希社代表取締役 銀河出版舎代表 美しいノートlleno(リエノ)代表 Will Design株式会社共同代表
〜想いを形に〜 誰もが心の奥に持つ、イノセント(純粋無垢)な想いを言語化視覚化、具現化。・独自商品・商材の開発、才能を発掘し世界に発信するサポート事業。・想いを伝え、残すラストラブレター事業。
座右の銘:いつも機嫌よく。自分が信じた世界が実現する。最大の病は孤独である。

最大の病は孤独」、誰にとっても「実家」のような場所をつくりたい

Q.どのような夢やビジョンをお持ちですか?

神田樹希望さん(以下、神田 敬称略):「最大の病は孤独である」
阪神淡路大震災の時、一人暮らしのおじいちゃん、おばあちゃんのところに訪問介護をされていたお医者様が言われた言葉です。震災で友人を亡くした私の心に響きました。それから誰も一人にしない社会をつくることに貢献できる誰にとっても実家のような場所をつくりたいと思っています。たった1人信頼できる人がいれば人生は変わると思うのです。

今回このコロナを経験したことで、Facebookの中に「巣篭り応援グループ」というのをつくりました。みんなが自分のできることを提供して、応援し合い楽しく巣篭り期間を過ごしませんかという趣旨のグループです。

初めてズームを使われた方も多かったので、よく知っている方がズームセミナーを無料で開催してくれたり、ヨガの先生が家でできる運動の動画を投稿してくださったり、ダウンロードできるイラストを送ってくださる方がいたりと、皆さんが自然とつながってくれて盛り上がりました。あれが無かったら本当に人と関われなかったと言ってくださる方もいて大変嬉しかったです。

前はリアルで人と出会える場所のイメージでしたが、この経験を通してSNSの中でもできるのだと感じました。今は巣立ちと名前を変えて、これから社会活動をしていく中でも、みんなで応援していこうよというグループに変わっていっています。

大きなチームで支え合う関係を

Q.実家のような場所をつくるのに、どのような目標や計画を立ててられますか?

神田:会社を創業して30年になるのですが、25歳の時に5坪の小さなテナントを借りました。そこから、ちょっとずつ横に横に広げてきたところが、70坪くらいの大きさになりました。小さいお店がいっぱい並んでいるところを一個ずつ買ってきているので、すごく不思議な建物になっています。
今は、知り合いがふらりとやってきて、食事しながら相談したり、コンサルを受けに来られます。いつか、今の会社をもう少し広いサロンに改装したいです。

そこへの参加は「自立」が前提で、誰かが誰かを支援するのではなく、大きなチームで支え合う関係を目指しています。
心理療法家の妻はカウンセリングをする中で心と食の関係の大切さに気づき、食を治療の中に取り入れています。日々、一生懸命生きている中で行き詰まった時に、ただご飯を食べに来るだけで元気になったり、そこに行けば仲間がいるという感覚を持てる場所を妻と一緒に考えています。

記者:奥様も同じような方向性を向いておられるのですね。

神田:それと僕は基本的に規模が小さくても「起業」することを推奨しています。たとえ1万円でも自分で稼ぐ、そこには夢を描くこと、人にお願いすること、自己責任、感謝、など全てがあります。失敗しても誰のせいにもできない、潔さがあります。そういう前向きな人を応援したり、支え合う場所であればと思っています。

魂が震える仕事に出会えるように

Q.その目標や計画に対して、どんな活動指針を持って、どんな基本活動をされていますか?

神田:僕は書いて想いを残すことや、整理することはすごく大事だと感じています。

僕は家庭の事情で、父とコミュニケーションを取る機会がなく、父はいないものだと思っていました。若くして起業していた時、「悪性リンパ腫」という血液の癌になりましたが、そんな時でさえ父は現れませんでした。そんな中、僕が抗癌剤の治療で入院中に、父親が脳内出血で倒れて一週間で亡くなってしまったのです。
退院して父親の遺品を整理した時に父の日記を見つけました。そこには僕のまったく知らなかった父親の姿があったのです。「今日何を買った」とか日常の事実だけが淡々と書かれている最後の方のページの中に「樹希入院」「点滴始まる」と書かれていて、「電話の声は元気そうだった。」という記述もあったのです。そこに「悲しい」とか「心配だ」などの感情の記載はなかったのですが、十分に父の気持ちが伝わってきました。
僕は父に愛されていなかったわけではないのだというのが分かりました。それまで父親がいないと思ってきた僕と、父親に愛されていたことが分かった32歳の時の僕とでは自分の中の土台がまったく変わった気がしました。誰かに愛されて生まれたのだということが、こんなに人を支えるのだということをいたった一言で感じることができたのです。だからノートに書いて残すことを世の中に広めようと思い、今は手製法のノートをつくる事業をしています。

今でも昔、自分が書いたノートを見返します。25歳の時なので内容はめちゃくちゃなのですが、お金や人脈が無い中で真っ直ぐ純粋に想っていた頃に戻れます。その時に比べて経験も人脈もある自分が何を恐れるのだろうと25歳の僕が教えてくれるような気がするのです。
そういった純粋無垢な想いを 「イノセントソース」と名付け、そこにアクセスするセミナーもやっています。

あと出版社などもしておりますが、根っこは全部一緒でどうしたらみんなの魂に触れることができるのだろう、魂が震える仕事に出会えるのだろうかということを、いろんな方法で考えているのが僕のライフワークになっています。

一人での試行錯誤 人の想いが何ものにも勝る

Q.「実家のような場所をつくる」というビジョンに至ったきっかけや発見、出会いにはどのようなものがあったのでしょうか?

僕は父はいないと思って生きてきて、早めに起業したので1人で試行錯誤し、失敗してきたことが多かったからかもしれません。
それに、今みたいに情報やセミナーがたくさんあったわけでもないし、身近にコンサルを雇うこともできず、当時自分は本を読むしかありませんでした。1人で起業して孤独な人の力になりたいと思っているのは、そういった経験からだと思います。

それと病気をしたことはすごく大きかったです。悪性リンパ腫の後、別の病気で成功率が15%以下という手術を受けたことがあります。ほぼ助からないのですが、7人の医療チームを組んでいただいた大きな手術でした。
その手術は朝8時から始まって夜の10時になっても終わらず、これ以上は麻酔も続けられなくなって一旦終わって病室に戻されましたが、その日の深夜2時くらいに危険な状態になりました。そしたら深夜なのに7人の医療チームの皆さんが全員戻って来てくださって、もう一回集中治療室に入り直しました。実際にはお腹を一回開いて閉じていますから、やることはそんなに無かったと思うのですが、その先生たちが僕の周りを取り囲んで、意識がふぅーっと無くなる僕の肩をつかんで「逝ったらあかんぞ!」「助けるからな」ということをやってくれたのです。結局、何をされたのかというのは覚えていないのですが、意識がなくなるたびに生きろということを繰り返してくれたのは覚えています。その後気がついたら朝になっていて、生きていると思いました。

「医は仁術」という言葉がありますが、本当に人の想いが何ものにも勝るという経験をしました。想いですべてを乗り越えられるということを人にやってもらったのがすごく大きかったです。いまだに自分が怠けようとか、ずるいことをしようとか思った時に先生の言葉が響くというか、先生たちのあの言葉に応えて生きているだろうかと、ふと思い出させてもらいます。そのおかげで本当に強く生きられるようになったと思います。

記者:本当に人の支えや想いはすごいですね。

必ず方法はあるし、助けてくれる人は現れる 

Q.起業の時や手術の時もそうですが、死ぬことなんて考えられない、諦めないといったマインドになった背景はどのようなものがあるのでしょうか?

神田:これは性格的にしつこいというのがあるのかもしれません(笑)
僕が起業をした時代は、株式会社をやるのに1千万円のお金がないとできませんでした。30年前に会社をつくるのはハードルが高かったのです。だから、そんな簡単に諦められないという気持ちもあったかもしれないです。

あと悪性リンパ腫が見つかった時は、治ったら借金をどう返すのかを考えていて、死んだらどうしようというイメージがありませんでした。後でそれが良かったんだよと言われました(笑)
その治療のために日本全国74件の病院を回りました。インターネットが発達していたら簡単に調べられるので、そこまでする必要もなかったと思うのですが、絶対に何か方法があると思っており、生きるために必死でした。結局、大阪の梅田で見つかって、北海道まで行ったのは何だったのだろうと思いましたが(笑)

先ほどお話しさせていただいた、いいお医者さんに出会えたようなことなどの小さな積み重ねの体験で、必ず方法はあるし助けてくれる人は現れるということを子供のころから信じているところがあります。

成功率15%の手術が終わって帰ってきたら、共同経営者に持ち逃げされたことがありました。その時はさすがにダメかもと思いました。うちのスタッフはみんな若かったし、「今ならどこでも転職の推薦状も書くから、行きたいところに行ってください」と言ったこともあるのですが、スタッフは誰も辞めませんでした。
そんな時、当時25歳だったスタッフの一人が月末に分厚い封筒を持って来て、「社長使って下さい」と僕に渡してくれました。たぶん、50~60万は入っていたと思います。その時、お金は本当に無かったのですが、僕の周りには人がいると思いました。そのお金は、封を開けずに返しました。志に共感してくれる人や周りの支えがあったからやってくることができました。そういう経験をたくさんさせてもらっています。その子も今は2児の母で息子は高校生になりましたから、今では笑い話ですが。

自分だけ得したいとか、ずるいことをして儲けたいということをやっていたらあまりそういうことは起きないかもしれませんが、本当に自分の魂が震えるようなことを一生懸命やり続けていたら、応援してくれる人や救いの手が現れることが、僕は誰にでも起きると思います。

僕はお金もない、人脈もない、デザイン事務所も出ていない、病気があったりしたけれど、ここまでやってこれました。有難いことに、応援してくれる人もできました。僕でも出来たのだよということを知ってもらって、特に若い方が一歩踏み出す後押しになればと思っています。きっと今の若い方のほうが勉強もしているし、情報を集めたりするのも上手なので、たぶん僕なんかよりもっとうまくやれると思います。

読者に向けて一言

本当に夢を掴んでやりたいことをやってほしいです。人生は生まれ変わりがあると言っても、この今世は今回限りなので、与えられた命を何に使うのかという想いで生き、震える仕事をしてもらえたらと思います。

【編集後記】
インタビューの記者を担当した川名と不知です。
ここには書き切れないお話しもたくさんありましたが、本当に優しいお人柄であっという間の楽しいインタビューでした。ますますのご活躍を応援しております。

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